「もう!だから言ったじゃない、気をつけてって!」
自分の不器用さに悪びれる顔をしている幸男に、明美は声を上げた。
明美の父は写真家だ。
還暦を過ぎ、準備も大変になってきて、これが最後の個展になる。
その手伝いとして、明美は、幼馴染の幸男を連れて、
この画廊にやってきていた。
幸男とは、恋が始まる寸前までいったことっもあるが、
その間際になると、「照れ」が出て、
いつもの幼馴染に戻ってしまうのがいつものオチだった。
「明美は昔から俺に冷たいんだよな。。
もう少し優しい言葉があってもいいのに」
幸男は少し拗ねた表情で、床に散らばった写真をかき集めている。
「わかったわよ、ごめんごめん。あとは私がやるから帰っていいわ。」
幸男に拗ねた表情は、
40歳を過ぎた今でもちっとも変っていない。
一瞬にして子供に還るような、
放っておけない「男の脆さ」の部分だ。
だが、その脆さとは裏腹に、
明美がピンチの時は、
必ず助けてくれるヒーローでもあった。
幼稚園で男の子にいじめられた時も、
運動会で転んで走れなくなった時も、
いつだって幸男が助けにきてくれた。
30代の頃、婚約していた男からこっぴどいフラれ方をして、
見るも無残に酔いつぶれた明美を、
幸男は何も言わずに介抱し、
次の日は、何事もなかったように、
「普通に」してくれたのが、
何よりも有難かったのを今でも覚えている。
こんなにも近くで、こんなにもあらわな自分をさらけ出しているのに、
「恋」というものを目の前にすると、
今更ながら、女として「照れ」が出るのは、おかしなものだ。
思えば、この頃からかもしれない。
明美が「本当の想い」に蓋をして、
全てを「照れ」で固めるようになったのは、、、。
明美は、幸男という存在が自分の中で、
どれほど大きくなっているか、気づきはじめていたからだ。
幸男から傷つけられたら、
この先、「人」というものを信頼せきる自信はない。
それよりか、幼馴染という永遠に切れることのない、
安全で穏やかな関係でいいじゃないか。
明美は自分のど真ん中の想いを見つめるのが怖くなっていた。
幸男が帰った後も、明美は作業を進めた。
とある1枚の写真を前に思わず手が止まる。
5年前に亡くなった母の写真だ。
母と明美は昔から正反対の性格で、好きな色も食材のしまい方も、
服のたたみ方も、気が合ったことがない。
口喧嘩は数えきれないほど。。
母は亡くなる2年くらい前から病になり、
少しずつ弱っていく母の身体は、どんどん透明になっていくようだった。
「ああ、それか、、。
母さんが1度だけ父さんに撮らせてくれた写真なんだ。。
母さんも父さんと似て、照れ屋でな、、。
『愛してる』って1度も言ったことがないんだ。
母さんは昔から夕焼けが好きで、
なんでも、夕方の空に色ってのは、
『あの世の空の色』らしんだ。
亡くなった人と繋がれる時間なんだって。
『夕日を眺めていると、素直になれる、、』
よくそんなことを言っていたよ。
明美と3人で、ここに来た時、
父さんな、言おうとしたんだ、『愛してるよ』って。。
でも父さん、どうしても言えなくて、
摘んできたスイートバイオレットの花を母さんにプレゼントしたんだ。
母さんが亡くなる前、言ってきたんだよ、父さんに。
『愛してるって言葉が聞きたい』って。
いつもの母さんらしくないことにちょっとびっくりして、
父さん、その時も照れちゃってな、
『何言ってんだよ、早く休めよ、、』って、、。
その翌朝なんだよ、母さんが亡くなったのは、、。
バカだよな、、父さん、
やっと言えたのが、葬儀の時、棺の中の母さんに言ったんだ。
『愛してるよ』って。。」
ふと見ると、父の涙が目尻を濡らしていた。
父が撮った写真には、
まだ幼い明美を愛おしそうに抱きかかえ、
こちらに微笑みかけている母がいる。
たとえ喧嘩ばかりでも、
今でも変わらない「明美への『愛してる』」を
語りかけてくれているようだった。。
スイートバイオレットの花言葉は、「秘密の愛」。
香りのインパクトが強く、
姿が見えなくともその存在を知らせるような芳香に
香水でも使われる花だ。
「母さん、、」
明美は、これまで蓋をしてきた感情は堰をきったかのように、
とめどなく溢れ、涙の渦の中にいた。
"私はこれまで何回「照れ」という盾をつき、
「本当の想い」を押しのけてきたのだろう。。"
男にフラれたことは本当の傷じゃない!
自分に向き合ってあげなかったことが、本当の傷なのだ。
明美を傷つけていたのは、他の誰でもない、明美自身だった。
そして、それは臆病の裏返しでもあったのだ。
母の写真を抱きしめていると、
明美は何か、身体の底から大きなエネルギーが湧き出るのを感じ、
スマートフォンに手を伸ばしていた。
「幸男、今から寄ってもいい?」
「ああ、もちろんさ」
『好きになってはいけない』ブレーキはもう外れている。
明美は、父と母が交わせなかった、
「あの言葉」を幸男に伝えようと決めていた。
町はいつしか黄金色に染まり、西の空に沈む夕日が、
明美の背中を押すように、大きく輝いていた。
ーーーーー thank you ーーーーー
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