午後の日差しが差し込む病室は、
静かな時間がゆっくり流れ、
窓から見える銀杏の葉は風にのり、可愛げにこちらに手を振っている。
まるで修道院のような清らかさがここにはある。
涼太は母・房江が倒れてからというもの、
時間がとれる日は、見舞いに来ていた。
ここに来ると、汚れる自分をどこか流してもらえる気がする。
入院時、延命治療をするか否かの書類にサインをした。
それがどういうことを示すのか、、、
逃げられない現実として、
受け止めなければならないことを理解するには、もう十分な大人になっていた。
涼太は父の顔を知らない。
生まれてすぐに仕事の事故で亡くなったと聞いている。
小さい頃は「父なしの子」と揶揄され、泣いて帰った日もあったが、
今は警察官として活躍するまでになった。
幼少の頃からの「母さんを守るのは僕なのだ」という、
彼の中の小さなヒーローが、警察官という職につかせたのだろう。
病室の棚には、房江がずっと好きだという、
ピンクの花弁が可愛い「リューココリネ」の花が飾られている。
花言葉は「温かい心・信じる心」。
花弁の中心ほどに深くなる色合いとほのかなバニラ香が、
どんなに辛い時も慰めてもらえるのだと房江は言う。
「涼太、、、、野生の象ってね、子供を連れている時には絶対に近づいたらダメなのよ」
「え、象って温厚なイメージなのに」
「そうよ、でもね、怒らせるととても怖い動物なの。
子供が狙われるものなら、命がけで守るの」
この日、房江はそう言いながら、
引き出しにあるアメジストの結婚指輪を出すよう言ってきた。
「これ、持っていきなさい」
「え、母さんの大切なものじゃないか、それに俺、男だし」
「いいのよ、持っているだけで、、。」
涼太は数年前、警察を辞め、ずっとやりたかったガラス工芸の道に進んでいた。
しかし、そんなに甘い世界ではない。
修行先でどれだけ良い仕事をしても、
自身の作品が売れなければ、食べるのもやっとの毎日。
警察官の職を辞めた途端、付き合っていた女はあからさまな態度で去っていき、
道ですれ違った他人の落とし物を拾ってあげた時も
涼太の火傷だらけの手を見て、
怪訝そうな顔をされたこともあり、
警察官いう公務員時代とは真逆の生活を送っていた。
修行期限はもう迫っていて、
それまでにひとつでも業績を残さなければ、ここを出なければならない。
作品がいよいよ作れなくなる。
そんな切迫した中、
仲間の作品が売れた時は、妬み嫉妬焦りの渦の中に容赦なく溺れる自分がいた。
常識も何もない、うまくいっている奴らをすべて壊してしまいたくなる。
劣等感の塊、、そんな自分の吐く息は、まるで獣にも似た匂いがしそうだった。
好きで始めたガラス工芸だったが、
ガラスのクリアさとは裏腹に、
涼太の心は、グレーの厚い雲のように、暗く、重く、よどんでいた。
「警察で活躍しているなんてウソよね。
ガラス工芸家だった父さんと同じ手になってきているもの。
涼太もその道に進むなんて、血は争えないわ。」
涼太は、アパートでひとり、アメジストの指輪を眺めていた。
神秘的な紫色、繊細な光沢、品のある透明感、、
石の持つリラックス効果なのか、、
いつの間にか眠りについてしまっていた。
―― 涼太、そうだそうだ、その感覚だ、いいぞ。
ああ、まだ早すぎる、ガラスの声に耳を澄ますんだ ーー
涼太は夢の中で、どこか懐かしい大きな存在に教えてもらっていた。
そして、いつのまにか出来上がったのは、、
アメジスト色の美しいグラスだった。
「これだ!!」
ハッとして目が覚める。
すぐさま工房へ行き、記憶が鮮やかなうちに、
時間も忘れ、ひとつの作品を作りあげた。
そして、ついに、夢で作ったあのグラスが目の前にある。
中心にいくにつれて深みのあるアメジスト色、、。
リューココリネの花のように、、、。
涼太はこのグラスを「マザーグラス」と名付け、出展した。
最後の賭けだった。
そして、それは、見事に栄光を勝ち取った。
同じ飲みものでもグラスで味が変わるというが、
まさに、涼太の作ったマザーグラスは、それを叶える代物だった。
マザーグラスに命が吹き込まれる頃、
病室の房江は、朦朧とした意識の中にいた。
「涼太、言ったでしょ、温厚な象でも子供のことは命がけで守るって。
それにね、母親って、子供の危機がわかるものなのよ」
徐々に房江の意識が遠のき、
銀杏の木の向こう側にできた彩雲を確認してから、
幸せそうに
ゆっくりと目を閉じるのであった。
――― thank you ―――
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